パリオリンピック日本代表として注目を集める柳井綾音選手ですが、彼女の出身高校中学といったルーツ、そしてなぜ駅伝から競歩へ転向したのか、その理由をご存じでしょうか?

21歳という若さで世界と戦う彼女ですが、実は高校時代には「競歩を辞めよう」と考えていた意外な過去や、10年越しに叶えた夢の物語がありました。

そこでこちらの記事では、柳井綾音選手のWiki経歴やプロフィール、出身校から、知られざる転向の理由、そして実業団・富士通への進路まで徹底的にまとめていきます。

こちらの記事でわかること
  • 柳井綾音の出身高校や中学はどこ?
  • 駅伝(長距離)から競歩へ転向した意外な理由
  • Wikiプロフィールと今後の進路(富士通)

柳井綾音の出身高校と中学校は?

柳井綾音の出身高校や中学は?Wiki経歴や駅伝から競歩転向の理由

柳井綾音選手が世界へ羽ばたく土台となったのは、地元・福岡県での学生時代です。

彼女はどのような環境で育ち、陸上競技の才能を磨いてきたのでしょうか。

ここでは、彼女の出身校や当時の成績について、具体的なエピソードを交えて深掘りしていきます。

出身高校は北九州市立高校!

柳井選手の出身高校は、地元の福岡県立北九州市立高等学校です。

立命館大学の特集インタビュー(+Rな人)

この高校はスポーツ、特に陸上競技の強豪校として全国的に知られており、彼女がこの環境を選んだことからも、高校入学時点で既に高い競技意識を持っていたことが分かります。

立命館大学の特集インタビュー(+Rな人)によると、彼女は高校時代、都大路(全国高校駅伝)を目指して厳しい練習に励んでいました。

北九州市立高校は、スポーツコースを擁するなど部活動が非常に盛んで、偏差値という指標以上に、アスリートを育成する環境として優れた実績を持っています。

高校時代の彼女は、まだ競歩専門ではなく、長距離選手(駅伝)としての活動がメインでした。

強豪校のハイレベルな環境下で、チームメイトと切磋琢磨しながらインターハイや全国大会を目指す日々。

「強くなりたい」という一心で練習に打ち込んでいた様子が、当時の経歴からも想像できます。

特に注目すべきは、高校の監督との出会いです。

後の見出しでも詳しく触れますが、この高校時代に監督から競歩への転向を勧められたことが、彼女の陸上人生を大きく変える転機となりました。

くまくん
くまくん
もし北九州市立高校に進学していなければ、今の「競歩選手・柳井綾音」は誕生していなかったかもしれません。

普段目にするクールなレース運びの裏には、高校時代の厳しい練習で培われた基礎体力と精神力が息づいているのです。

出身中学校は曽根中学

高校入学前から、彼女は地元では名の知れたランナーでした。

月陸Onlineの選手名鑑記事などのデータを確認すると、出身中学校は北九州市立曽根中学校であることが分かります。

曽根中学校時代から、柳井選手は長距離種目で頭角を現していました。

単に部活動で走っていただけでなく、全日本中学校陸上競技選手権大会(全中)に出場するなど、全国レベルの大会を経験しています。

中学生の頃から全国の舞台を踏んでいる経験値は、その後の競技人生において大きなアドバンテージになったはずです。

立命館大学のインタビュー記事でも触れられていますが、彼女にとって「走ること」は生活の一部であり、幼い頃から自然と陸上の世界にのめり込んでいきました。

うさちゃん
うさちゃん
曽根中学校での3年間は、彼女がアスリートとしての基礎を築き、「もっと上で戦いたい」という向上心を育んだ重要な時期だったと言えます。

中学、高校と地元・北九州で着実に力をつけ、全国区の選手へと成長していった柳井選手。

しかし、彼女の陸上への情熱の原点は、さらに幼い頃、小学生時代にまで遡ります。
そこには、ある「憧れの存在」がありました。

次は、彼女が陸上競技、そして駅伝に憧れを抱くようになった原点のエピソードをご紹介します。

柳井綾音の小学校からの経歴!立命館駅伝への憧れが原点

柳井綾音の出身高校や中学は?Wiki経歴や駅伝から競歩転向の理由

アスリートとしてのキャリアを振り返る際、多くの選手には「運命の瞬間」とも言える原体験があります。

柳井綾音選手にとって、それは小学生の頃に見たある光景でした。

ここでは、彼女が陸上競技、そして現在の母校である立命館大学に強く惹かれるようになったきっかけとなる、感動的なエピソードをご紹介します。

立命館への憧れは小6

柳井選手が陸上競技、特に駅伝に対して強い憧れを抱いたのは、まだ小学生の頃でした。

関西のライフスタイルマガジンanna(アンナ)のインタビュー記事で語られている通り、彼女は小学6年生の時に、テレビで全日本大学女子駅伝(杜の都駅伝)を観戦していました。

その時、画面の向こうで圧倒的な強さを見せつけていたのが、立命館大学女子陸上競技部でした。

当時の立命館は大会5連覇を達成するなど黄金期を迎えており、エンジ色のユニフォーム(立命館のスクールカラー)が仙台の街を駆け抜ける姿は、少女だった柳井選手の目に強烈に焼き付いたのです。

「かっこいい。私もあのユニフォームを着て走りたい」

単なるファンのような憧れではなく、自分の将来の姿として明確にイメージした瞬間でした。

多くの小学生が漠然とした夢を抱く中で、彼女は特定の大学、特定のユニフォームに憧れるという、非常に具体的かつ高い目標を見つけたのです。

このエピソードを知ると、彼女がなぜ地元の福岡を離れ、関西の立命館大学への進学を選んだのか、その理由が深く理解できます。

彼女にとって立命館大学は、単なる進学先ではなく、10年越しの夢の舞台だったのです。

くまくん
くまくん
小学生の頃に抱いた純粋な憧れを、大人になるまで持ち続け、実際にその舞台に立つための努力を重ねてきたこと。

この一貫した意志の強さこそが、世界で戦うトップアスリートとしての資質なのかもしれません。

卒業文集に書いた夢

この「立命館への憧れ」は、単なる口約束や一時的な感情ではありませんでした。

その証拠に、彼女は小学校の卒業文集に、驚くほど明確な未来予想図を描いています。

読売テレビ「あすリートチャンネル」などのメディアでも紹介されていますが、彼女は卒業文集に「立命館大学に入って駅伝を走る」という趣旨の夢をはっきりと書き残しています。

通常、小学生の夢といえば「陸上の選手になりたい」「オリンピックに出たい」といった大きな枠組みで語られることが多いものです。

しかし、柳井選手の場合は「立命館大学」という具体的な所属先まで指定していました

これは、彼女の中で目標がブレることなく、常に「そこ」を目指して中学・高校時代の厳しい練習に耐えてきたことを証明しています。

実際に彼女は高校卒業後、憧れの立命館大学に入学を果たします。

そして、ただ入学するだけでなく、駅伝メンバーとしても活躍し、さらには競歩で世界への切符を掴み取りました。

幼い頃に書いた夢の言葉を、自らの足で一歩ずつ現実に変えていったのです。

うさちゃん
うさちゃん
このエピソードで特に感銘を受けるのは、彼女が「夢を叶える力」を持っている点です。

卒業文集の言葉を現実にした彼女の姿は、これから夢を追いかける多くの子供たちにとっても、大きな勇気と希望を与えるのではないでしょうか。

しかし、夢の舞台である立命館大学に入学した後、彼女は陸上選手として大きな決断を迫られることになります。

それは、「駅伝(長距離)」から「競歩」への本格的な転向です。

次は、なぜ彼女が愛してやまない駅伝だけでなく、過酷な競歩の世界へ足を踏み入れたのか、その意外な理由と転向の経緯に迫ります。

柳井綾音の駅伝の実力は?長距離から競歩へ転向した理由

柳井綾音の出身高校や中学は?Wiki経歴や駅伝から競歩転向の理由

「走る」種目である駅伝と、「歩く」種目である競歩。

似て非なるこの2つの競技において、柳井綾音選手は稀有な「二刀流」としてその才能を発揮してきました。

くまくん
くまくん
なぜ彼女は大好きな駅伝だけでなく、過酷な競歩の道を選んだのでしょうか?そして、駅伝選手としての実力はどれほどのものだったのでしょうか。

ここでは、彼女の運命を変えた転向の理由と、世界への扉を開いた決断の裏側に迫ります。

監督の一言で転向決意

結論から言えば、彼女が競歩を始めたきっかけは、自らの意志ではなく「高校時代の顧問の先生の勧め」「怪我」でした。

立命館大学のインタビュー記事(+Rな人)で語られている通り、高校1年生の頃、シンスプリント(脛の痛み)などの怪我に悩まされていた時期がありました。

走る練習が十分にできない中、顧問の先生から「リハビリを兼ねて競歩をやってみないか?」「競歩なら世界を目指せるかもしれない」と声をかけられたのが全ての始まりです。

しかし、当初の彼女はこの提案に乗り気ではありませんでした。

関西のウェブメディアanna(アンナ)の取材に対し、彼女は

「競歩独特の腰を動かすフォームが恥ずかしかった」

「長距離よりも競歩の方がきつい」

引用:関西のウェブメディアanna(アンナ)

と当時の正直な心境を吐露しています。

競歩は「走ってはいけない」という厳格なルールがあり、審判にジャッジされる心理的なプレッシャーも凄まじい競技です。

うさちゃん
うさちゃん
「走るのが好き」な彼女にとって、歩くことへの専念は葛藤の連続だったことでしょう。

実際、高校3年生でインターハイ優勝を果たした際には、「これを最後に競歩は辞めて、大学では駅伝一本でいく」と決めていたそうです。

その決意を覆したのは、同じ高校の先輩であり、東京オリンピック代表でもある藤井菜々子選手の存在でした。

「一緒に世界を目指そう」という先輩の言葉がなければ、パリオリンピック代表・柳井綾音は誕生していなかったかもしれません。

指導者の慧眼と先輩の導き、そして何より、嫌々ながらも結果を出してしまう彼女の隠しきれない才能に、運命的なものを感じずにはいられません。

駅伝と競歩の二刀流

では、駅伝選手としての実力はどうだったのでしょうか?

「競歩に専念したから走るのは苦手になった」と思われがちですが、事実は全く逆です。

彼女は大学進学後も、競歩で世界と戦いながら、駅伝メンバーとしてもチームに貢献する「二刀流」を貫きました。

その実力が証明されたのが、大学2年生の時に開催された全日本大学女子駅伝(杜の都駅伝)です。

立命館大学新聞社の報道によると、彼女はこの大舞台でメンバー入りを果たし、実際に区間を走ってチームの準優勝に大きく貢献しています。

競歩という全く違う筋肉や動きを使う競技を極めながら、全国トップレベルの大学女子駅伝で通用する走力を維持することは、並大抵の努力では不可能です。

しかし、二刀流の道は決して平坦ではありませんでした。

大学1年の富士山女子駅伝では思うような走りができず、悔し涙を流したこともあります。

それでも彼女は「駅伝で培ったスタミナは競歩に生きる」「競歩で鍛えた体幹は走りに生きる」と信じ、両方の競技に全力で向き合ってきました。(立命館大学新聞社の報道

結果として、彼女は競歩でパリオリンピック日本代表の座を射止めました。
(出典: JOC パリオリンピック2024 選手プロフィール(柳井綾音)

「走る」ことを諦めず、「歩く」ことからも逃げなかった。

この「どちらも極める」という貪欲な姿勢こそが、世界で戦うための強靭なメンタリティを育て上げた最大の要因ではないでしょうか。

くまくん
くまくん
私たちが彼女を応援したくなるのは、単に「足が速いから」ではなく、こうした葛藤や挫折を乗り越え、自分の可能性を信じ抜いた強さに心を打たれるからなのだと思います。

パリ五輪代表への道

高校時代の転向、大学での二刀流を経て、ついに彼女は世界の舞台へと到達しました。
2024年パリオリンピック

かつて「辞めよう」とすら思った競歩で、日の丸を背負うことになったのです。

長距離から競歩への転向は、決して「逃げ」ではありませんでした。

それは、自らの可能性を最大限に活かし、世界と戦うための「攻め」の選択だったのです。

駅伝への愛を持ち続けながら、競歩という過酷な道で頂点を目指す柳井綾音選手。

うさちゃん
うさちゃん
実業団という新たなステージに進む彼女が、今後どのような伝説を歩んでいくのか、これからの活躍がますます楽しみです。

次項では、大学卒業後の気になる進路について、最新情報を交えて見ていきましょう。

進路は実業団の富士通へ

立命館大学での華々しい活躍を経て、柳井綾音選手の次なるステージにも大きな注目が集まっています。

結論として、彼女は大学卒業後、実業団の強豪である「富士通」へ加入することが決定しています。

この情報は非常に新しく、陸上競技の専門メディアである月陸Onlineが2025年11月5日に配信した記事で報じられました。

記事によると、2026年4月付での新加入選手として発表されており、日本陸上界の名門である富士通陸上競技部の一員として、新たなキャリアをスタートさせることになります。

富士通といえば、オリンピックや世界陸上で活躍する多くのトップアスリートを輩出してきたチームであり、練習環境やサポート体制は国内最高峰と言えます。

くまくん
くまくん
学生時代から「世界で戦う」ことを目標に掲げてきた柳井選手にとって、これ以上ない環境を選んだと言えるでしょう。

特に競歩は、技術的な指導や海外遠征などのサポートが成績に直結しやすい種目です。

うさちゃん
うさちゃん
実業団というプロフェッショナルな環境に身を置くことで、パリオリンピックでの経験を糧に、さらなる飛躍が期待されます。

大学時代は「駅伝と競歩の二刀流」としても知られていましたが、実業団入りを機に、より専門性の高いトレーニングに集中することになるでしょう。

うさちゃん
うさちゃん
ファンとしては、富士通のユニフォーム(赤と黒のジャージ)に袖を通した彼女が、世界の舞台でどのような歩みを見せてくれるのか、今から楽しみでなりません。

多くの学生アスリートを見てきましたが、実業団入りはゴールではなくスタートです。

しかし、柳井選手のような実績のある選手が、名門・富士通を選んだという事実そのものが、彼女の競技に対する本気度と覚悟を物語っているように感じます。

このように、プロフィールや進路を見るだけでも、柳井綾音という選手が日本陸上界にとってどれほど重要な存在であるかが分かります。

柳井綾音のwikiプロフィール!年齢・身長や出身地

柳井綾音の出身高校や中学は?Wiki経歴や駅伝から競歩転向の理由

最後に、柳井選手のwikiプロフィールを見ていきましょう。

日本の女子競歩界を牽引する若きエース、柳井綾音(やない あやね)選手。

パリオリンピック日本代表としての活躍も記憶に新しく、その実力と将来性に多くの注目が集まっています。

まずは、彼女の基本的なプロフィール情報について、公式データを基に詳しく解説していきます。

名前 柳井 綾音(やない あやね)
生年月日 2003年12月24日(日本陸連
年齢 22歳(2025年12月現在)
身長 156cm(時事ニュース)
出身地 福岡県 北九州市(月陸Online
出身校 北九州市立高等学校
立命館大学 食マネジメント学部(大学公式
所属 立命館大学
※2026年4月より富士通へ加入(進路報道

 

年齢や身長・体重は?

結論から申し上げますと、柳井綾音選手は2003年生まれの現在21歳(2025年時点)で、身長は156cmという恵まれた体格を持つアスリートです。

(日本陸上競技連盟公式サイト/時事ニュース)

まず、最も基本的な情報である生年月日や身体データについてですが、日本陸上競技連盟公式サイトによると、誕生日2003年12月24日のクリスマスイブであることが公表されています。

また、世界で戦う上で重要となる身長については、時事ニュースのパリオリンピックTEAM JAPAN選手プロフィールにて、身長156cmと記載されています。

くまくん
くまくん
日本の成人女性の平均身長と比較しても長身の部類に入り、この手足の長さが、競歩という種目において大きなストライドを生み出す武器になっていることは間違いありません。

体重については、アスリートのコンディション管理の観点から変動するため公表されていないケースが多いですが、長距離種目から転向した経緯もあり、非常に引き締まった体幹の強さを感じさせるフィジカルを持っています。

出身地は?

出身地に関しては、福岡県北九州市です。

月陸Online(選手名鑑)

これについては後ほどの見出しでも詳しく触れますが、地元の名門校を経て、関西の強豪・立命館大学へと進学し、才能を開花させました。

彼女のプロフィールを整理すると、単なる「若手選手」という枠を超え、U20世界陸上競技選手権大会で銅メダルを獲得するなど、早い段階から世界を見据えて戦ってきた実績がWeblio辞書(Wikipedia引用)などの記録からも読み取れます。

くまくん
くまくん
特に競歩という過酷な競技において、20代前半でこれだけの実績を積み上げている点は特筆すべきでしょう。

テレビ越しに見る彼女は、常に冷静で淡々とレースを進める印象がありますが、そのプロフィールからは、着実にステップアップを重ねてきた努力の天才としての姿が浮かび上がってきます。

クリスマス生まれという華やかな誕生日に、世界と戦うタフなアスリートとしての顔を持つギャップも、多くのファンに応援される理由の一つかもしれません!

うさちゃん
うさちゃん
ここまでの経歴を見ると、彼女が単に身体能力が高いだけでなく、競歩という技術的な難易度の高い種目に対して、非常に高い適性を持っていたことがわかります。

記事のまとめ

ここまで、競歩界の若きエース・柳井綾音選手の経歴や、競技人生のターニングポイントについて詳しく見てきました。

華々しい実績の裏には、怪我による葛藤や、恩師・先輩との運命的な出会いがあったことがわかりましたね。

「走る」ことが大好きだった少女が、「歩く」という最も過酷な種目で世界の頂点を目指す姿は、私たちに「置かれた場所で咲く」ことの尊さを教えてくれているようです。

 

立命館大学での「二刀流」の挑戦を経て、実業団という新たなステージへ進む彼女。その瞳はすでに、次のオリンピックを見据えているに違いありません。

最後に、この記事の重要なポイントをまとめておきます。

この記事のまとめ
  • 柳井綾音は2003年12月24日生まれの21歳、身長166cm。
  • 出身高校は北九州市立高校、中学は福岡の曽根中と地元で育った。
  • 小学6年生で立命館大学の駅伝に憧れ、卒業文集の夢を実現させた。
  • 競歩への転向理由は、高校時代の怪我と顧問の勧め、先輩の言葉。
  • 大学卒業後の進路は、名門実業団の「富士通」に決定している。

これからも柳井綾音選手が、その長い手足を生かした美しいフォームで、世界のトラックを駆け抜けていく(歩き抜けていく)姿を全力で応援していきましょう!

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!